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Daydreaming

テーマは特にありません

リリー、種々の全て

 「日常系」の台頭、もしくは恋愛要素を好まない層の拡大により、女性しか出てこない漫画、アニメ作品が多くなった。「ご注文はうさぎですか?」「ガールズ&パンツァー」など、大きく人気を獲得したものも多い。

 

 これらの作品には男女の恋愛が存在しない―男性がほとんど出てこないから当たり前だ―が、ここで生じやすいのが同性間の恋愛、憧憬、独占といった感情だ。いわゆる萌豚の人々の中には、そうした要素を好む者も多い(私もそうだが)。共依存、嫉妬、不安などの負の面が、異性間だと生々しく映るが、同性間のそれに移項することでフィルタリングされ、美しく映る。

 

 ここで注意しなければならないのは、3次元は対象にならないということだ。2次レズは全てファンタジーであり、だからこそ尊い。そして決してその中に入りたいと考えてはならない。ただ見守る、神の視点こそが必要なのだ。そうして初めて、異質な世界観を、現実に基づいた幻想を楽しめる。

 

 今期だと「終末のイゼッタ」はポテンシャルが高いと思う。物語も面白いので注視したい。

 

 

 

レムナント

 新潟県に、湯沢町という町がある。ここは川端康成の小説「雪国」の舞台であり、バブル期にはスキー客が多く訪れ、リゾート開発が進んだ。しかし今では、バブルの残骸だけが残る、活気のない町になっている。豪華なマンションはタダ同然で買える(維持費が高くまた買うと処分できないので買い手はつかない)ようになり、スキー客が冬に来る程度だ。

 

 地方再生は容易いことではない。私も地方で暮らすことに限界を感じ関東に移った一人だ。東京とは言わないまでも、都市圏(横浜、大阪、福岡など)に暮らすメリットは果てしなく大きい。田舎に祖父や祖母が住んでいるという家庭も多いと思うが、介護や生活のことを考えると都市圏に住んだほうがいいのは明白だ。各自治体で町おこしが行われているが、そうしたメリットを上回れるかは疑問だ。

 

 インターネットの発達によって、都市と地方(田舎)の格差は縮まったように思えたが、実態はそうではなかった。医療、学問、情報、イベント(オタク的に言えば店頭でのフリーライブ、握手会とか)の差は厳然として存在し、そして何より、人に出会うことによって得られる経験値が、都市と田舎では大きく違ってくる。こうした差を埋めない限り、地方再生は進まないだろう。

 

 私はもう地方に住みたくない。オタクである限り。

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幻影

 先日、宇多田ヒカルの新譜「Fantôme」を借りてきた(Google Play Musicになかった)。聴いて思ったことを書きたいと思う。

 

 まず、「歌を聴かせたい」という指向性が伝わってきた。音数、アレンジが以前のアルバムと比べてシンプルになっていて、歌が曲の中心、先頭に立って流れてくる。「traveling」のような曲はなく、落ち着いた曲が多い。

 

 彼女は少し前に再婚し、母親となった。だからこのアルバムはそういった幸せとかを表現した作品になると予想していた。しかし、このアルバムから感じられるのは、喪失感であり「死」だ。「花束を君に」「真夏の通り雨」などが顕著だが、母親を失ったことへの想いが、曲に表れている。

 

 このアルバムは大衆的でありながら、その実内省的で、マイノリティに向けて確信犯的に作られている。かつての5枚とは圧倒的に違う、新たな地平にあるアルバムだと思った。かなり聴き手を選ぶと思う(私は全体的に言えばあまり好きではない)。

 

 このアルバムの中では「真夏の通り雨」「桜流し」が好みだ。ちなみに過去作で言うと私は「Be My Last」とか「Kiss&Cry」が気に入っている。

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奇蹟がくれた数式

 映画「奇蹟がくれた数式」を劇場で観てきた。第一次世界大戦中のイギリスにおける、二人の数学者―ラマヌジャンとハーディ―の研究、交流を描いた物語である。数学者をテーマにした映画は多いが、ラマヌジャンをテーマにした作品はおそらくこれが初めてだと思う。ほぼ実話なのでネタバレも何もないのだが、ここではラマヌジャンとその背景について書きたいと思う。

 

 私がラマヌジャンの名前を知ったのは、藤原正彦のベストセラー「国家の品格」にそのエピソードが語られたからだ。その項目(膨大な定理の発見、そしてその未証明、タクシー数)を読み、その名が頭の片隅に残っていた。そして今回、ラマヌジャンの映画が公開されると知り、鑑賞に至った。

 

 だから内容としては目新しい点は特になかった―しかし、考えさせられる点は多かった。ラマヌジャンは大学を出ていなかった。そのせいで彼は「証明」をすることがなく、彼の発見は認められるのに長い時間を要した。しかし、彼が正規の数学教育を受けていたら、果たして彼の独創性は発揮されただろうか。教育に求められる役割とは何か、考えさせられる部分だと思った。

 

 この映画で私がむしろ興味を持ったのはハーディについてだ。彼はもちろん物語のキーパーソンだが、作中で彼のパーソナルな部分については全く描かれていない。彼の著書があるらしいので、読んでみたいと思っている。

 

 タクシー数のエピソードは脚色されているが、映画の演出の方が素敵だと思った。

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PPAP

 今YouTubeで話題の「PPAP」だが、私はあまり面白いとは思わなかった。ただ、なぜ世界規模で受けたのかを考えてみると「面白かった」(興味深かった)ので、書きたいと思う。

 

 歌(?)の最初のフレーズである「I have a pen」であるが、これは我々が英語を最初に学ぶとき、必ずと言っていいほど使われている文だ。この文を使うことにより、子供には「学校でやったところだ」という感情を励起させ、大人には、「ああそんなの中学で聞いたな」という記憶を思い起こさせ、歌全体に親しみやすさを持たせている。

 

 ペンと林檎(もしくはパイナップルとペン)を合体させるとき、そしてその二つを合体させて「ペンパイナッポーアッポーペン」を作るくだりがあるが、そこで特筆すべきなのは、合体の際に言葉を用いず「Ah」で表現しているところだ。本来、この場面では「I have connected」や「I’m connecting」など二物を繋げている、連結していることを示す文が来るはずだが、あえて「Ah」で表すことで、対象とされる二物に意識をフォーカスさせる、また英語の歌でありながら「英語感」を取り払うことに成功している。

 

 短いし特に中身のない歌だが、現代の流れに乗るように上手く考えられていると思った。PPAPはYouTubeという文化に対して、最適化された笑いであり、コンテンツである。それが進化なのか退化なのかは、私にはもう分からない。

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ラジオ

 中学生の頃から、特に理由もなくラジオを聞き始めた。聞いていたのは、「スクールオブロック」「伊集院光 深夜の馬鹿力」だった。

 

 「スクールオブロック」は、中学校で話題になっていたので聞いてみた。当時の私は邦ロックに疎く、この番組のおかげで詳しくなったと思う。恋愛の悩みとか、勉強の悩みとか、今になっては取るに足らないようなことで、私もリスナーも悩んでいた。遠くの誰かとラジオを通じて繋がっている感覚は、当時の私にとって新鮮だった。

 

 「伊集院光 深夜の馬鹿力」は、ポッドキャストから知った。TVで見る彼とは違った、毒舌、下劣トークなトークにびっくりしたが、その雰囲気が面白く、毎週聞くようになった。彼の着眼点、頭の回転の速さには、今でも驚かされる。私の思考、会話体系に大きく影響を与えていると思う(話を誇張しすぎるのは悪い癖かもしれない)。

 

 高校を卒業して、私は「スクールオブロック」を聞かなくなった。理由は世代が合わなくなった(対象リスナー層から外れた)から、そして価値観が変わってしまったからだ。少し寂しい気もするが、仕方がないことでもある。あの番組は、ティーンエイジャーのアサイラムなのだから。

 

 

 

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プラダを着た悪魔/マイ・インターン

 キャリアウーマンが活躍する映画は、女性の社会進出によって一定の需要が生み出され、働く女性たちの人気を得てきた。タイトルの2作は、どちらもやり手の女社長がキーマンとなる作品であり、両作には女優のアン・ハサウェイが出演している。

 

 「プラダを着た悪魔」(2006)では、実在の人物をモデルとしたファッション雑誌の鬼編集長に、アン・ハサウェイ演じる新人アシスタントが振り回される。一方「マイ・インターン」(2015)では、アン・ハサウェイがファッション通販サイトの若手社長としてキャスティングされている。一瞬この2作は連作なのかと思ったが、そんなことはなかった(おそらく制作サイドの遊び心と話題作りだろう)。

 

 働く女性にスポットを当てている点では同じだが、2作のアプローチは異なる。「プラダ」では、とにかく働くこと、有能であることが美徳とされる世界が描かれた。「マイ・インターン」では、仕事だけでなく家庭を顧みることの大切さが描かれている。10年経って、女性の社会でのあり方が変わってきた、また男性のあり方も変わってきた、ということだろうか。2作とも良作なので見て欲しいと思う。

 

 「女性が働ける社会」になったのではなくて「女性も働かなければならない社会」になってしまったと思うのは私だけだろうか。